唐招提寺
简介
唐の高僧・鑑真が晩年を過ごした律宗の総本山です。五度の渡航失敗と失明を経て来日した鑑真が、天平宝字三年(七五九年)に開きました。天平時代の金堂がほぼ完全な姿で残る唯一の遺構で、正面に並ぶ八本のエンタシスの円柱が深い軒を支えています。御影堂の鑑真和上坐像は日本最古の肖像彫刻とされ、毎年六月の開山忌にあわせて三日間だけ公開されます。
历史
唐招提寺は天平宝字三年(七五九年)、唐から渡来した鑑真和上によって創建されました。
【鑑真の来日(七四二年〜七五四年)】
日本には正式に僧を認定する戒律の制度がなく、これを整えるため聖武天皇は唐へ僧を派遣して高僧の招請を試みました。揚州の大明寺にいた鑑真は、渡航の危険を説かれてなお自ら渡日を決意します。天宝二年(七四三年)の第一次から数えて五度の渡航が難破や密告によって失敗し、その過程で弟子を失い、鑑真自身も視力を失いました。天平勝宝五年(七五三年)、六度目にしてついに薩摩に上陸します。すでに六十六歳、渡日を志してから十二年が経っていました。翌年、東大寺大仏殿前に戒壇を築き、聖武上皇をはじめ四百余名に授戒しています。
【唐招提寺の創建(七五九年)】
天平宝字三年(七五九年)、鑑真は新田部親王の旧邸を賜り、戒律を学ぶ道場として唐招提寺を開きました。東大寺のような国家の大伽藍ではなく、修行と教育のための寺として構想されたものです。天平宝字七年(七六三年)、鑑真は七十六歳で入寂しました。
【金堂という遺構】
奈良時代の金堂で今日まで残るのはここだけです。正面七間、寄棟造の堂の前面には壁がなく、八本の円柱が並ぶ吹き放ちの空間になっています。柱は中ほどがわずかに膨らむエンタシスで、深い軒の影と相まって独特の重厚さを生んでいます。堂内には盧舎那仏坐像、薬師如来立像、千手観音立像が並び、いずれも天平期の乾漆・木心乾漆の大作です。
【中世から江戸時代(一一八五年〜一八六八年)】
鎌倉期には覚盛が戒律の復興に努め、寺は律宗の中心として再び活気を得ます。この覚盛の遺徳を偲び、女性たちがうちわを供えたことに始まるとされる「うちわまき」が、今も五月に行われています。江戸期には幕府や有力者の援助で修理が重ねられました。
【近代から現代(一八六八年〜)】
明治期に金堂の解体修理が行われ、昭和にも二度の修理を経ています。平成十年(一九九八年)に「古都奈良の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録。平成十二年(二〇〇〇年)から十年をかけた「平成の大修理」では金堂が全面解体され、平成二十一年(二〇〇九年)に落慶しました。鑑真和上坐像は今も御影堂に安置され、開山忌の前後三日間のみ拝観できます。
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