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鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

About

Begun in 1063 when Minamoto no Yoriyoshi invited the deity of Iwashimizu Hachimangu down to Yuigahama, and moved to its present site in 1180 by Minamoto no Yoritomo. The town of Kamakura was laid out with this shrine as its starting point, the Wakamiya boulevard running straight from it to the sea. The raised causeway called Dankazura on the approach was built by Yoritomo in prayer for his wife's safe delivery. The great ginkgo that stood beside the stone steps, long spoken of as the place of Sanetomo's assassination, fell in 2010.

History

鶴岡八幡宮は康平六年(一〇六三年)の勧請に始まり、鎌倉幕府の宗社として栄えました。

【勧請と遷座(一〇六三年〜一一八〇年)】

前九年の役を平定した源頼義が、京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺に勧請したことに始まります。治承四年(一一八〇年)、鎌倉に入った源頼朝は小林郷北山の現在地へ社を移し、源氏の氏神として鎌倉の中心に据えました。

【鎌倉という都市の設計】

頼朝は社殿を町の北の高台に置き、そこから海へ向かって若宮大路をまっすぐに通しました。政治の中心である幕府と、信仰の中心である八幡宮と、海という三点を一本の軸で結ぶ設計です。参道の中央を一段高くした段葛は、寿永元年(一一八二年)、妻の北条政子の安産を祈願して頼朝自らが指揮して築かせたと伝えられます。武家の都市がこれほど明確な軸線を持って造られた例は、それまでの日本にありませんでした。

【実朝暗殺(一二一九年)】

建保七年(一二一九年)正月、三代将軍源実朝が右大臣拝賀の式のため参拝した際、大石段で甥の公暁に暗殺されました。公暁が身を潜めていたとされるのが石段脇の大銀杏です。これにより源氏の正統は三代で絶え、幕府の実権は北条氏へ移りました。ただし大銀杏が当時すでにあの大きさであったかは疑わしく、伝承の域を出ないとされています。

【神仏習合と明治の分離(一一八〇年〜一八六八年)】

中世を通じて鶴岡八幡宮寺と称し、境内には多宝塔や護摩堂が建ち並ぶ神仏習合の大寺院でした。明治の神仏分離令により仏教施設はことごとく取り壊され、僧侶は還俗させられます。現在の広々とした境内の景観は、このとき多くの堂塔が失われた結果でもあります。

【大銀杏の倒伏(二〇一〇年)】

平成二十二年(二〇一〇年)三月十日未明、樹齢千年ともいわれた大銀杏が強風と雪の重みで根元から倒れました。倒木は隣に移植され、切り株からは新たな若芽が育っています。倒壊後の調査で、樹齢は実際には数百年程度であったと推定されました。

【現代】

現在も鎌倉の中心として、初詣、流鏑馬神事、ぼんぼり祭などに多くの人が集まります。段葛は平成二十八年(二〇一六年)に大規模な改修を終えました。

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