仁和寺
About
Completed in 888, the temple came to be called 'the Omuro Palace' after Emperor Uda took up residence here upon entering holy orders, and until the Meiji era its abbots were successively members of the imperial family. The Omuro cherry trees of the grounds stand only two or three meters tall and flower from the base of the trunk, letting you meet the blossoms at eye level. Their bloom comes late even by Kyoto's measure, and the temple has long been loved as a place to enjoy the cherry flowers well into the second half of April. A UNESCO World Heritage Site.
History
仁和寺は仁和四年(八八八年)、宇多天皇によって完成された真言宗御室派の総本山です。
【創建(八八六年〜八八八年)】
光孝天皇が仁和二年(八八六年)に建立を発願しましたが、翌年に崩御したため、子の宇多天皇が遺志を継いで仁和四年(八八八年)に完成させました。当時の元号を取って仁和寺と名付けられます。
【御室御所の成立(八九九年〜一一〇〇年頃)】
昌泰二年(八九九年)、宇多天皇は出家して仁和寺に入り、僧坊を「御室」と称しました。天皇が出家して住持となったことで、仁和寺は皇室と直結する特別な寺院となります。以後、明治維新まで約千年にわたって皇子や皇族が代々住職を務める門跡寺院となり、「御室御所」の名で呼ばれました。門跡寺院の筆頭としての格式は、他の寺院とは一線を画すものでした。
【応仁の乱による焼失(一四六七年〜一四七七年)】
応仁の乱で仁和寺は西軍の陣所となり、伽藍のすべてが焼失しました。本尊の阿弥陀三尊像は運び出されて難を逃れましたが、寺は事実上壊滅し、以後百六十年余りにわたって仮の御堂で法灯を守る時代が続きます。
【江戸期の再興(一六三四年〜一六四六年)】
寛永十一年(一六三四年)、三代将軍徳川家光が上洛した折に再興が認められ、正保三年(一六四六年)までに伽藍が整えられました。この再建にあたっては、御所の建て替えで不要となった紫宸殿・清涼殿などが下賜され、移築されています。現在の金堂は御所紫宸殿を移築したもので、現存する最古の紫宸殿遺構として国宝に指定されています。宮廷建築がそのまま仏堂になったという成り立ちは、この寺の性格をよく表しています。
【御室桜と近代(一六四六年〜現在)】
中門内の西側一帯に広がる御室桜は江戸期には既に名高く、『都名所図会』にも描かれています。樹高が低いのは地下の岩盤が固く根を深く張れないためと長く言われてきましたが、近年の土壌調査では粘土質で有機質に乏しいことが要因とされています。明治二十年(一八八七年)の火災で御殿を焼失し、現在の御殿は大正期の再建です。平成六年(一九九四年)、「古都京都の文化財」の一つとして世界文化遺産に登録されました。
💬 Comments
Sign in to leave a comment