成田山新勝寺

About
The head temple of the Shingon Chisan school, begun in 940 when the high priest Kanchu bore an image of the Wisdom King Fudo here to pray for the quelling of Taira no Masakado's rebellion. The principal image of Fudo Myoo is attributed to Kobo Daishi. Its number of New Year worshippers is surpassed only by Meiji Jingu—some three million over the first three days. The kabuki house of Ichikawa Danjuro, devout in its faith here, took the stage name 'Naritaya', and among the commoners of Edo the temple spread simply as 'Narita Fudo'.
History
新勝寺は天慶三年(九四〇年)、朱雀天皇の勅命によって開かれました。
【将門の乱と開山(九三九年〜九四〇年)】
天慶二年(九三九年)、平将門が関東で反乱を起こすと、朝廷は寛朝大僧正に鎮定の祈祷を命じました。寛朝は弘法大師自刻と伝わる不動明王像を奉じて京から東国へ下り、成田の地で二十一日間の護摩を焚きます。満願の日に乱が平定されたことから、この地に不動明王を留めて寺を開いたのが新勝寺の始まりです。「新たに勝つ」という寺名はこの由緒に由来します。
【江戸の庶民信仰(一七〇三年〜一八六八年)】
元禄十六年(一七〇三年)、江戸の深川で行われた出開帳が大きな評判を呼びました。江戸から成田までは徒歩で三日ほど、手頃な物見遊山を兼ねた参詣先として「成田詣」が流行します。街道沿いには宿場が発達し、参道には旅籠や料理屋が軒を連ねました。今も参道に鰻屋が多いのは、この時代に参詣客をもてなした名残です。
【市川團十郎家との縁】
初代市川團十郎は成田の不動に子授けを祈願して二代目を授かったと伝えられ、以後、市川宗家は成田山を篤く信仰しました。屋号「成田屋」はこれに由来します。二代目團十郎が不動明王を演じた『成田山分身不動』が大当たりしたことで、成田不動の名は江戸中に広まりました。舞台の見得で客席から「成田屋!」と声がかかるとき、そこには寺の名が呼ばれています。信仰と芝居と興行が結びついて広まった例として際立っています。
【伽藍の変遷(一八五八年〜一九六八年)】
安政五年(一八五八年)建立の本堂は、昭和三十九年(一九六四年)に釈迦堂として境内に移築されました。同様に、元禄期の本堂は光明堂として、天保期の本堂は薬師堂として、それぞれ移されて現存しています。建て替えのたびに古い本堂を壊さず移築して使い続けたため、江戸期の三つの本堂が同じ境内に揃うという珍しい状態になりました。現在の大本堂は昭和四十三年(一九六八年)の建立です。
【現代】
初詣の参拝者は例年三百万人前後を数えます。本尊の不動明王の前では毎日五回から七回の御護摩祈祷が行われ、これは開山以来千年以上途切れたことがないとされます。境内奥には十六万平方メートルの成田山公園が広がり、参詣とあわせて散策する人も多く訪れます。
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